■ 月姫 −Radiant White,Benignant Black & The Others− / YOU      体が揺さぶられる。  誰かの声が聞こえる。  僕を激しく揺さぶり、そして無理やり覚醒を誘うのは・・・誰だ? 「おいこらー、朝だぞー。起きろ起きろ〜」  アルクェイドだった。 「う・・・うぅ」  僕は朦朧としながらなんとか体を起こす。 「あ、起きた起きたー」  実に嬉しそうなアルクェイドの声。そんな声を聞いていると、僕まで嬉しくなってしまう。  ただしそれは、アルクェイドが、僕の部屋に勝手に入ってきているのでなければの話だ。しかも窓から。や、扉から入ってきたらそれはそれで困るんだが。 「アルクェイド・・・出来れば朝は部屋にこないでくれって言っただろ?」  不快感を示すために寝ぼけた目で睨むと、アルクェイドは少し申し訳なさそうな顔をした。そして一転、朗らかな笑顔。 「だって、一晩中ぼうっとしてたんだよ? 志貴」  その言葉と彼女の表情に僕は圧倒された。 つまり彼女の言いたいことはこうだ。一晩もじっと我慢してたのだから、僕が起きるべき時間までやってこなかったことは賞賛に値する忍耐力であり、一晩我慢した報酬としてのこの訪問は妥当なものだ、と。  ・・・君はそれでも、無限の時を生きる吸血種か。 「一つ聞きたいんだけど、いいか? アルクェイド」 「えっ!? 何々?」  僕がコミュニケーションを拒絶しなかったことがよほど嬉しいらしい。いつもの無邪気な様子で聞き返してくる。 「こうやって朝にやってこられるのは迷惑だって言った覚えが僕にはあるんだけど、アルクェイドのほうはどう?」  僕はとりたてて感情を込めることなくそう言った。彼女の機嫌を損ねない程度の、精一杯の皮肉だった。 「うん!」  アルクェイドは幼稚園児が保母さんに返事をするように元気な返事をしてきた。  僕は溜息をついた。無駄なのか? 「じゃあ、朝に来るのはやめようとか思わない?」 「うん。思わない」  アルクェイドは即答だった。 「だって、私、志貴のこと好きだもの。本当は24時間いつでもどこでも一緒にいたい。でも、夜は志貴が寝るから我慢してるんだよ? 偉くない? がっこうの時とかも、そうだよ?」  彼女はまさに吸血種の真祖だ。僕は、今、それを改めて実感した。なにせ考え方が根本的に違う。だから、解らせる必要がある。 「偉くない」  これを言い切った僕が偉い。そう思う。ライオンに向かってシマウマが「お前は馬鹿だ」と言い切ったに等しい。僕は偉い。かなり確実に。  いつの間にやら、登校時に先輩が迎えに来てくれることが習慣になっていた。初めて先輩が迎えに来た日に、先輩を秋葉に紹介した。秋葉は始終、苦虫を噛み潰したような苦りきった顔をして、あからさまに先輩を歓迎しなかった。先輩が気を悪くしなかったかと心配だったが、先輩は大して気にしてない風だった。  門の前まで送ったときに、そのことを聞いてみた。 「当然だと思います」  先輩は僕を誤魔化す時の例の表情、つまりにっこりとして朗らかな人当たりのいい微笑を浮かべてそう言った。僕にはわけがわからなかったが、誰に聞くわけにもいかない。僕がテーブルマナーをしくじった時以上に機嫌の悪い秋葉、「志貴様は少々愚鈍だと思います」という目つきをした翡翠、なぜか妙に忙しそうな琥珀さん。そして、聞こうとすると例の笑顔を浮かべる先輩。誰にも聞けなかった。なんだかみんな怖くて。それを聞くことで蜂の巣をつつくようなことになるんじゃないかと思って。  そのことについてヒントがあるとすれば、その日の夕食で、一言、秋葉は言ったことがある。 「あのような女性は、兄さんには相応しくないと思いますよ」  よく解らなかった。とりあえず、秋葉が本気でそう思ってることだけは理解した。翡翠と琥珀さんが、頷いていたような気がした。  ともかく、そんなことよりもなにせ僕はもう一つの重大な厄介ごとがあった。すなわちアルクェイドという吸血種の真祖にまとわりつかれていたのだ。彼女のお蔭で、先輩との関係に毎日ヒビが入ってはそれを修復するという苦行をこなしているのだ。  どうにかしなければいけない。  でも、どうすればいいんだ?  僕は色々あるとしても、所詮はただの人間だ。  観念する・・・べきなんだろうか。ううう・・・。  授業中だ。 「え〜、つまり、ここのf(x)にこの式を代入する。するとだな・・・」  かなりどうでもいい数学の授業。飽きて窓の外に目をやる。この校舎は上手い具合に街の景色が見える。右から左に向かってなだらかに傾斜して登る街並み。登りきった先には遠野の家があるのだろう。ちょうど僕の真後ろの方向にあるから見えないが。  と、ふと何かがはためく。校舎の傍に立つ大木からだ。僕の位置からは5メートルと離れていない。白い何かがはためいた個所に目をやる。  アルクェイドがにこやかに手を振っていた。  僕は机に突っ伏した。 「・・・であるからして、ここはマイナス2になるわけだ。これが解だな。・・・ん? 遠野、どうした? また貧血か?」  数学教師の気の無い声。僕が貧血で倒れるのは、半分ぐらいは日常と化していた。 「いえ、大丈夫です」  顔を上げてそう答えた。有彦が「なにやってんだオマエ?」という目で僕を見ていた。あいつが僕の体調の良し悪しを見分けられるというのは、どうやら本当のことのようだ。 「そうか。じゃあ授業を続けるぞ。次は問3の5だ」  数学教師は問題を解きつづける。彼はそれが使命であるかのように。  窓の外に目をやる。  朗らかな笑顔を浮かべ、精一杯の愛嬌と共に僕に手を振るアルクェイド。他にすることを知らないとでも言うかのように。 「うう」  僕は我知らずうめいた。有彦がまた怪訝そうな顔をした。  食堂。込み合った昼休みの食堂の中で、僕らの周りだけは妙に人気が無い。原因の一つは、乾有彦という今時の不良の見本がいること。もう一つは、学園でそれなりに人気のあるシエル先輩が一緒にいること。そして最後の理由は、いろいろと曰くのある遠野家の長男がいること。これほど近づき難くお近づきになりたくないトリオというのも珍しいだろう。 「んでだな、そのとき遠野がお得意のボケをかましやがって・・・」  有彦は自分勝手に中学時代のことを脚色していた。僕はそれを訂正する元気も無かった。どうでもいい。どうだっていい。誰か僕をこの窮地から救ってくれ。 「・・・遠野君、元気ないですね。どうかしたんですか」  貴方はその原因の一つですよ。そう言えたらどんなに楽か。でもそれはただの八つ当たり。 「あー、そういや授業中も様子が変だったッスよ、こいつ」  軽く小突いてくる有彦。 「や、なんでもないです」  なぜか敬語。 「・・・ならいいですけど」  なぜか拗ねた調子の先輩。 「あー? 隠し事は良くないなあ、遠野志貴君。僕達親友だろ?」  先輩の様子を見て取って、有彦がややオーバーアクション気味に問いたてる。 「そうです。なにか心配事があるなら話してください。解決できないまでも、気分が楽になると思います」  聖母のような先輩。しかし、心配事の原因を話せば聖母が修羅になるのが解っている。しかもやっかいなのは、僕に対して修羅になるわけではないということ。 「いや、大丈夫大丈夫。問題ないから」  そう言って場を濁す。だってそれ以外にどうしようもないんだ。  あの後、有彦と先輩と三人でそこはかとなく遊んだ。ゲームセンターで遊んだり、カラオケボックスに入ったり。先輩は何かを気にして周囲を見回したりもしていたが、開き直って気にしないことにしたようだ。僕はその原因がわかっていたが、あえて口にしなかった。  面倒だからね。 「さーて、志貴。私の時間だよ?」  有彦と別れ、先輩を送った後、気付けばアルクェイドが背後に立っていた。  午後10時を過ぎたらアルクェイドの時間。いつだかした約束はいまだに有効だ。僕のほうからその約束を反故にするのは、物理的に不可能。 「うん。じゃあ、今日はどうする?」  僕は諦めて、アルクェイドの方へ向き直った。  と、驚愕の事実。 「えへへ・・・どうかな」  アルクェイドは簡素ながらもパーティドレスのようなものを着ていた。仰々しいものではなく、単に格式ある場所でも出入りできる服装というだけのことだが、しかしそれでも、それはアルクェイドの美しさを十二分に引き出すことに成功していた。僕はしばらく言葉を失って彼女を見つめた。 「あ・・・う・・・変?」  僕が呆然と魅入って黙っていると、彼女は不安そうに上目遣いに僕を見つめてそう聞いてきた。僕は彼女の純白の美しさに意識を囚われていたが、彼女の不安そうな声に意識を自分の中に取り戻し、何とか言葉を返そうとした。 「あ、うん。綺麗だ」  努力の結果、間抜けな褒め言葉が出てきた。もう少し気の利いた言葉を捜したのだが、それを見つける手間をかけるより、アルクェイドを安心させるほうが重要だった。 「・・・えへへっ」  アルクェイドは、僕が呆然とした中で引っ張り出した陳腐な言葉に、とても満足そうで、そして気恥ずかしそうだった。 「今日は何か、アルクェイドの方で考えがあるみたいだね」 「あはは。解っちゃった?」  そりゃあね、と僕は頷く。 「えっと・・・今日は普通の恋人同士になろうって思った」  アルクェイドはシルクの長い手袋に覆われた腕をクネクネと絡ませて、伺うように傾げた顔に沿えていた。 「へぇ・・・じゃあ、何処に行くかは決めてあるの?」  うん、とアルクェイドは頷いた。 「でぃずにーらんどって知ってる?」  知ってる。千葉県にあるけど、東京ディズニーランドと名乗っているネズミの王国だ。僕はそんな皮肉な言葉が喉から飛び出てこないように押し込めて、黙って頷いた。 「ナイトパレードってのがあるんだって。見にいこ?」  ・・・あ? 「だって、ここから東京までどれくらいあると・・・」  と言ってから、アルクェイドが吸血種の、しかも真祖と呼ばれる最高位の存在であるのを思い出した。 「私が連れてってあげる。だから、いいよね?」  否やはない。ありえない。黙って頷いた。 「じゃ、行こ」  アルクェイドが僕を抱え、夜の町を飛び出した。  ディズニーランドで盛大なパレードをほとんどその一部となりかけながら楽しんだ後、僕らは台湾に飛んでビリヤードを楽しみ、香港でルーレットとスロットとビッグ&スモールを楽しんでしこたま負けた後、インドネシアの田舎町を死都と化していた死徒をついでに滅ぼし、日本に帰ってきた。時間は午前4時。僕は寝床に着こうとしていた。 「志貴〜。今日も楽しかったね」  僕はどうとも答えられず愛想笑いで返事をした。 「私、やっぱり賭け事ニガテなのかなー」  香港での出来事を思い出しているだろう。僕から見れば苦手とか得意とかそういう範疇でなく、なにか間違ってるとしか言いようの無いやり方だった。まずルーレットで席に着くなりダブルゼロに千ドル。次にゼロに千ドル。数字は当たらないねと言ってレッドに2千ドル払って、全部負けて不機嫌になる(無論、香港ドルではなく米ドルだ。不機嫌の理由は損したからじゃなくて、負けたから)。んでスロットで適当に時間を潰し、ビッグ&スモールでダブルアップを繰り返し、64倍くらいになった時にゾロ目がでて親の総取りになり頭に来たイカサマだと言ってディーラーを殺しかける(無論、あちらさんの方でもそんな無礼な台詞を放つ女は殺したかったことだろう)。どうも賭け事に関する観念がずれてる。  同様に、ビリヤードに関しては言わずもがな。僕が一緒にいるせいで、日本語が通じると見て取ってコナをかけて来た日本人観光客を魔眼で支配して追い出し、殆ど貸切状態に。まあゲームはそれなりに楽しんだ。僕は眠くてろくに打てず、アルクェイドも下手だったのでいい勝負と言えばいい勝負だった。アルクェイドは負けが込むとキューを握りつぶすからかなり怖かった。 「志貴〜、志貴〜」  インドネシアで死徒を殺したのは、まさにストレス解消。僕はぼうっと見守ってるだけで事は済んだ。時々こっちを振り向いてはにこっと笑って、また死者を壊しに掛かる。死徒と戦う間には、「志貴〜、応援して〜、負けちゃうよ〜」などと冗談が聞けるぐらいだった。相手が脅えても、手は抜かなかった。  なんだかいつまでも中途半端にいたぶられている相手が可哀想だったので、アルクェイドの望みどおりに「頑張れ」と一言かけた。その瞬間にアルクェイドは死徒を磨り潰した。アルクェイドは汚れ一つ無くいつもどおり真っ白なままで「志貴のおかげ〜」と言って僕にしなだれかかってきた。  僕はあんまりにも愚かなこの真祖の姫君がいとおしくなって、そこで彼女を抱いた。  初めて彼女を抱いた。えらく興奮した。そのあと後悔した。  でもどうにもならない。 「志貴〜」  彼女は、僕の体に身を寄せ、目をつぶった。  無言の要求に僕は葛藤しつつも、彼女の唇に自分の唇を触れさせた。  十秒か二十秒。時間がたつ。予想外なことに、彼女のほうから体を離した。 「あはっ。これ以上だと、志貴のこと、血を吸ってでも支配したくなっちゃうから」  怖いことを可愛らしい笑顔で言う。 「だから、また明日ね」  日付的には、もう、今日だろう。 「じゃあね」  照れ臭そうに、アルクェイドは窓の外へと跳ねて行った。その笑顔の端に、涙が光っていた。  やけに胸が痛んだ。  先輩が、気配のするほうに向かって殺気の篭った視線を送る。 「未練がましい・・・」  先輩の視線の先にいるのはアルクェイドだ。 「確かに約束どおり、私の前には姿をあらわさないようですが・・・遠野君は大丈夫ですか?」  その意味は、僕の前にもアルクェイドが姿をあらわしていないかどうかという問いだった。 「ああ、うん」  僕は曖昧に頷いた。 「そうですか」  先輩は心底安心したようだった。これも、一日おきに繰り返されるやり取り。 「じゃあ、お昼に今日の予定を決めましょう。いい映画を見つけてあるんです」  先輩も、だいぶ世俗の垢に塗れてきたようだ。映画と言う娯楽を知ってからは、いつも新しい恋愛映画を見つけては僕と一緒に観ようとする。たまに、僕が一緒にいられない時は、有彦と一緒に観たりする。三人一緒と言うのは無い。有彦が遠慮するからだ。あいつはそういうヤツだ。 「・・・遠野君」  ふと、先輩の声が暗くなる。 「やっぱり、あの女と縁は切れませんか?」  あの女、というのはアルクェイドのことだ。 「うん・・・」  僕の返事も暗い。 「そうですか・・・。私が不甲斐ないばっかりに」  先輩は妙に時代がかった言い回しをしてくる。 「しょうがないよ。アルクェイドは真祖なんだし。僕は彼女の血をほんの少しとは言え受け入れてしまったんだし」  慰めるように言った。・・・そもそも慰めるようなことではないのだけど。 「私があの女を滅することが出来るほどの力があればこんなことは」  やや興奮した先輩の声。 「そんなこと言わないで。先輩がまた吸血種と戦うのなんて、僕は嫌だ」  なんて白白しい台詞。素直に、アルクェイドを殺さないでと言えばいい。 「そう・・・ですね」  いつまでも死徒退治を強要する埋葬機関と決別した先輩は、もう第七聖典どころか黒鍵すら持っていない。しかもロアの影響の無い今の先輩は、運動能力こそ常人をはるかに超えるものの、アルクェイドと戦えるほどの力は無い。 「いつか飽きるよ。きっと」 「・・・はい」  先輩は諦めたように頷いた。 「今日は先輩の日だから。ね?」  そんな口先だけの慰めをした。  先輩が埋葬機関と決別したことを聞きつけたアルクェイドは、僕と先輩に向かって幾つかの要求をした。すでにロアが死んで復元能力を失った先輩は、アルクェイドと互角に戦う力は無く、その要求を受け入れる以外の選択肢は無かった。  アルクェイドの要求はこうだ。シエルは一日おきにしか遠野志貴を束縛してはならない。自由時の行動は、遠野志貴の意志に完全に任せること。学校に関わること以外では、自分(つまりアルクェイド本人だ)が志貴と一緒にいることを認めること。お互いに接触を持とうとしないこと。  こうした要求を、先輩はしぶしぶ受け入れた。埋葬機関と縁を切った以上は、アルクェイドを滅ぼす理由も力も無い。僕がアルクェイドを対等の存在と認める以上は、彼女の僕に対する接近を不当と決め付ける理由は無い。  アルクェイドの要求は、現状を明確に言葉にしたものだった。  以来、僕はアルクェイドと先輩の間を日ごとに行き来している。一昨日はアルクェイド。昨日は先輩。今日はアルクェイド。明日は先輩。明後日はアルクェイド。その次は先輩。  事実上、アルクェイドは専制支配者だ。それが多大なる譲歩を示している。その気になればアルクェイドが先輩を殺すのは実に簡単なことだ。しかし、そうすれば僕が彼女に対して心を開かなくなることが、アルクェイドにも解っている。先輩は先輩で、アルクェイドの絶大な力の前に、彼女の譲歩を慈悲として受け入れるしかないと考えている。  つまり先輩の命は僕の態度如何に関わっており、それは即ちアルクェイドと仲良くすることに繋がる。  ただここで問題なのは、僕はアルクェイドと一緒にいることが嬉しいと言うことだ。  先輩のことは勿論愛している。一緒にいることはそれだけで無上の喜びだ。しかし、アルクェイドとと一緒の時間を過ごすことはそれも嬉しいのだ。僕はアルクェイドが好きだ。そのことにも嘘偽りは無い。  僕が本気でアルクェイドを拒絶すれば、おそらく彼女は自分の城に戻る。そして本来の役務を再開するだろう。孤独と絶望に包まれて。それが、僕には我慢ならない。彼女の孤独は、察して余りあるのだ。ずっと独りで『死』と戦ってきた僕には、たった独りで死徒と戦ってきた彼女の孤独が。 「ねえ・・・先輩」  帰り道。いつもどおり先輩が送ってくれる。僕は坂道で唐突に語りかけた。 「アルクェイドのこと、解ってあげられないかな。アイツも淋しいヤツなんだって。たまたま、刷り込みみたいに僕にまとわりついてるだけなんだって」  すでに埋葬機関の人間ではない先輩にとっては、彼女が吸血種であることが積極的な排斥の理由にはならない。それになにより、アルクェイドは血の渇きに抗う事が出来るのだということを僕らに見せ付けている。彼女は僕の自由意志を奪うことを望んでいない。だから、僕の命の危険を盾に、彼女の接近を拒むことはやや道理を得ない。  勿論、可能性は否定しきれない。彼女にはそれができる。だから危ぶむことはそれなりに道理だ。 「・・・遠野君は、彼女にいて欲しいんですか?」  先輩の返事は、恋人の気持ちから生まれる自然なものだった。僕は彼女の嫉妬が少し嬉しかった。それと同時に、やはり二人は解り合えないのかと思って哀しくなった。 「そうじゃない。そうじゃないんだ」  ぐるぐると回る心を抱えながらも、僕は先輩の問いが正当であることを認めていた。アルクェイドとの一夜があるのだ。けれどそれを口に出すことは出来なかった。僕は嘘つきだ。僕はアルクェイドを抱いた。一度だけ。けれど致命的な失敗。 「彼女は子供なんだ。まだ何も知らない。僕以外に興味を持てる物も無い。親鳥についてくる子鴨みたいなものなんだよ。だから・・・彼女が僕の周りにいることを許してあげられないかな」  僕自身が、彼女の存在を求めている。恋人とかそういうことじゃない。愛し合うとかそういうことじゃない。彼女が僕の傍にいること。それを求めている。  それはある意味でこれ以上無い不誠実な感情だ。ただ近くにいて欲しいと思うだけ。それ以上もそれ以下も望まない。この気持ちがなんなのか、それすら僕には解らない。 「・・・」  先輩は俯いて押し黙っていた。暫く、2,3分。  そして唐突に顔を挙げ、僕に向かって明るい顔を見せる。 「しょうがありませんねー、遠野君は。優しすぎるんです。誰にでも」  その笑顔は、あの、誤魔化す時の笑顔だった。どこかとぼけた感じのする、あの微笑だった。 「でも絶対に、約束してください。遠野君の恋人は私なんだって。絶対にあの女には心を移したりしないんだって。・・・いえ、もし心変わりをするとしても、絶対にあの女には心を奪われたりしないって」  そして先輩の笑顔は、僕を教え諭すようなものから、慈愛を込めたそれへと変わっていた。 「だってそうじゃないですか。これで私が許してあの女に遠野君を取られたら、悔やんでも悔やみきれません。だから、約束してください」  僕は後悔した。でももう遅かった。僕の痛みよりも先に先輩は覚悟してしまっていたから。いまさら無かったことになんて出来ない。 「約束・・・出来ますか? 絶対に、絶対にあの女にだけは心を移さないって」  先輩は笑顔で泣いていた。僕の我侭の為に。 「うん・・・約束する。アルクェイドがもう少し大人になるまで一緒にいてあげるだけで、僕は彼女と付き合うようなことはしない」  僕は嘘つきだった。  それからアルクェイドは、僕が『がっこう』に行ってる間以外はいつもベタベタしているようになった。アルクェイドが引っ付いていると先輩が引き剥がしに掛かり、二人はなんだか険悪な視線を取り交わす。  僕の手前、二人は物理的な争いをするようなことは無かったものの、アルクェイドは「はやくこんなカタブツは捨てて私と世界中で遊ぼうよ」とか平気で言ったし、先輩は「こんな阿呆女と一緒にいたら脳が腐ります。さっさと絶縁状を叩き付けてください」としきりに言ってきた。無論と言うかなんというか、そうした毒舌は二人が二人とも僕の前にいるときに言われたものだ。二人は不思議なことに、お互いがそれぞれ別々に僕と会っているときは、相手の悪口らしいものは決して口にしなかった。それが、相手のことを考えたくもないと思っているからなのか、それともフェアプレー精神に基づくものなのかということは、僕にはわからなかった。  もしかしたら、二人はお互いに、僕の傍に相手がいることは認めているのかもしれない。ただ、長いこと争いあった手前、どうにも一緒にいることがおかしな感じがして、どうしても憎まれ口を叩かずにはいられないのじゃないだろうか。・・・そういうのは、僕の希望的観測なんだろうが。  言い訳をさせてもらえるのなら、アルクェイドと体を重ねたのはあのインドネシアの夜の一度きりだ。アルクェイドはそれで十分満足したように見える。自分に脈有りというところから、射程圏内に収まったと言う風に思っているようだ。少なくとも、遠野志貴という人物はただ自分を好いているだけではなく、自分の何がしかを求めている。そういう確信を得たようだった。  先輩はそんなアルクェイドの確信めいたものを肌で感じて、僕を険しい目で睨みつつも、結局は何も言わなかった。僕はいっそ責められたほうが言い訳も出来るしいくらか気が楽だったのだが、先輩は何も言わなかった。むしろこの状態は、僕に選択権があるという建前上、僕が二人に対してかなり優位に立っている・・・という風に考えられるわけで、先輩はそういうことを気にしたのかも知れない。だとすると、僕は相当な悪人ということになる。・・・うはぁ。  ともあれ僕は二つの皿を提げた天秤棒だった。僕は真実、心のそこから二人の女の子を幸せにしたいと思っていた。僕からすれば想像もつかないほどの長い時間を孤独と虚無の中で過ごしてきた女の子。ただひたすらに終わることだけを追い求め、罪を背負って安らぎを捨てて来た女の子。どちらも僕は幸せにしたかった。だからどちらかに傾くことは出来ない。  どちらかを選べば、どちらかを幸せにするのは簡単なのかもしれない。けれど思う。犠牲の上に成り立つ幸せは、やはりその犠牲の為に崩れるんじゃないかと。いや、そんな言い訳めいたことを言わなくても、確実に僕は想像できる。二人のうちどちらかを捨ててしまった時、僕は僕でなくなるのだと。人の痛みを、自分の感覚から切り捨てることの出来る人間になってしまうのだと。そして、そんな割り切った考えを持った僕を、二人が二人とも求めていないのだということを。  だから僕はこの綱渡りを続ける。そして今がいつまでも続くことを望む。それは僕が欲張りだからだ。一人の女の子を幸せにするのだって普通は人生をかけるものなのに、二人もの女の子を幸せにしたいと思うような、とてつもない欲張りだからだ。 「ねーねー、志貴ぃ。ちゅーしよ、ちゅー」 「・・・なっ! 何を言い出すのこの破廉恥吸血種!」 「だって、このあいだ『てれび』ってので見たよ? 恋人同士はちゅーするんだって。ちゅーしようよ、ねー」 「え? あ・・・や、あのー」 「いつ! どこで! 貴方と遠野君が恋人同士になったんですか! 遠野君の恋人は私です! 決して、未来永劫、何処までいっても貴方が遠野君の恋人になんかなりません!」  びしぃっと先輩は力強くアルクェイドを指差す。何か凛々しささえ伴う姿だった。 「・・・へー? じゃあ、ここでちゅーしてみなよ。恋人なんでしょ? 『てれび』で言ってたよ。愛し合う恋人同士は所構わずちゅーしあうって」  薄ら笑いを浮かべたアルクェイドは、先輩にそんな要求を突きつける。先輩がそれを出来ないと確信しての挑発だ。 「や、あの・・・君達?」 「・・・そんな破廉恥なことが出来ますかっ! ここは天下の往来ですよ!? 人が沢山見てるんですっ!」  そういう先輩の絶叫が、より衆目を集めていた。 「へー、じゃあ、シエルと志貴は恋人じゃないんじゃない? だって、『てれび』で言ってたもの。恋人はそういうふうにするって」  俄か知識で攻め立てるアルクェイド。アルクェイドが見た番組は、そういう『公衆の面前で恥かしげも無くキスをする輩を批難する』タイプのものだったのではないだろうかと思うが・・・アルクェイドは要するにシエルをからかえればそれでいいらしい。 「・・・っ!」  先輩は言葉を詰まらせた。先輩は古風というか妙に古き良き日本とでも言うようなところがあって、少しでも性的な匂いのする事柄に対しては不思議に羞恥心が強い。欧米人というのはそういう、愛情の表現に対しては大らかだと聞いていたけど・・・違うのだろうか。 「私はできるよー。ねー、志貴—、ちゅーしよ、ちゅ〜・・・」 「やめなさいっ! 汚らわしいッ!」  二人の間で固まっている僕に、アルクェイドが目を閉じて顔を寄せてくる。そこへ先輩が電光石火のケリ(!?)を放つ。アルクェイドは目を瞑りながらもそれを感知していたのか、余裕でさっと捌いてかわす。 「この・・・破廉恥吸血鬼っ! 今日こそ・・・今日こそ封印してあげるわっ! 覚悟なさい!」 「へっへ〜? 黒鍵も、ましてや復元能力も無い貴方が私を封印する? やってもらおうじゃないの。くすくす」  ぎりっ・・・と音が聞こえてくるほどに先輩が歯を食いしばる。哀しいかな、アルクェイドの言葉は正しい。先輩は魔術に関する知識があり、運動能力が抜群に優れているものの、いまやただの人間でしかない。真祖であるアルクェイドと互角に戦う力は無い。  余裕を見せるアルクェイド。歯軋りする先輩。  数秒、二人がにらみ合った後、同時に僕へと目線を移す。先輩は射殺すような視線。アルクェイドはからかうような目つき。 「・・・えっ?」 「こんな破廉恥な阿呆女にいつまで付き合ってるつもりなんです!?」 「私だったら、シエルよりもっと気持ちいいことしてあげれるよ〜? こんなカタブツとじゃ毎日つまんないでしょ?」  僕が二人の言葉にうろたえていると、二人は視線を戻して火花を散らすようににらみ合う。 「遠野君! 今日こそは、きょ・う・こ・そ・は! この女と縁を切ってもらいます!」 「志貴〜、大切な違いが一つあるよ。私はお金持ち、この女はただのパン職人。人間の生き方を考えれば、どっちを選ぶのか賢いか、わっかるよね〜?」  日に日にろくでもない知識を蓄えていくアルクェイド。そのアルクェイドに挑発され苛立ちを募らせる先輩。 「や、あの〜・・・えーとですねぇ」  僕の立場は、日に日に追い詰められているのでした。  こんな僕を、皆さんは両手に花だと羨みますか? 「遠野君ッ!」 「志貴〜」  羨みますか? 本当に? いやー、それは賢明じゃないですよ。僕があの有彦にすら代わって欲しいと考えられないぐらいですから。 「さあ! どうなんですか!」 「どーおー? 冷静に考えれば、私のほうがいいって。絶対」  話は変わりますが、この間、ヴァチカン市国教皇庁所属独立機関のナントカさんからお手紙が来ました。文面はこう。 『このたびはうちのシエルを貰っていただいてありがとうございます。実の所、シエルは優秀ではあるのですが成果に比例する被害を現地にもたらすのでほとほと心痛の種でした。特にロアが関わる時には、真祖の姫君まで絡んできて被害が二倍三倍どころか二乗三乗されていく有様だったのです。あ、これは本人には内密にお願いします。できれば我々としては、真祖の姫君、シエルともども、あなた様のところで大人しくしていててくれないかというのが本心なのです。あなた様もご覧になったでしょうが、シエルの持ち出した第七聖典、あれは元々だたの本だったのですがそれをシエルが・・・』  以下、A4サイズほどの大き目の便箋にして10枚以上にわたるシエルへの愚痴(と、端々にアルクェイドへの苦情)に満ち満ちていた。  すでに殆どの真祖が封印されるか滅ぼされるかしている以上、残る始祖を討伐するのはある種のルーティンワークでしかないらしい。そういうのは組織の力でやったほうが効率がよく、スタンドプレーに走るシエルは実はお荷物なのだということで。僕はヴァチカンの事情はもとより、真祖の姫君であるアルクェイドともども、世界平和の為にこの二人を繋ぎとめておく必要があるのだ・・・というのが手紙のシメの結論だった。 「遠野君ッ!」 「志〜貴〜?」  まあそんな裏事情が無くとも、僕はいとおしく可愛らしいこの二人の女の子と共に在ることを望んでいるわけなんだけども・・・。  ふと、背後で車のドアが開く音がする。 「あら、兄さん。お帰りですか? でしたらご一緒に・・・兄さん? そちらの方々は?」  学校からの帰りだったのだろう。秋葉がいくらか弾んだ調子の高いトーンで声をかけて来て、体感温度マイナス何度だろうかと思われるほどの殺気すらこもるトーンの低い問いかけをしてきた。僕は後ろを振り向くことが出来ず、声だけしか聞いてはいないが、きっと胡散臭いものを見るような目つきをしていることだろう。  ・・・さて、これでも皆さんは僕を羨みますか? 「お買い物〜、お買い物〜。翡翠ちゃん、今日の夕ご飯は何がいい?」 「ハンバーグ」  右手方向から聞き覚えのある声。エプロンドレスのメイド服と、着物に割烹着をつけた、見覚えの在る双子の姉妹。 「も〜、翡翠ちゃん。それは翡翠ちゃんが食べたいものじゃないでしょ? 志貴さんが移ってこられてからそればっかりなんだから、もう」 「・・・」  う・・・。 「兄さん、そちらの方は・・・ええと、シエルとかおっしゃる方でしたっけ? もうお一方はどういう方でどのようなご関係なの?」 「遠野君?」 「志貴〜?」 「あー、志貴さーん!」 「・・・志貴様」  これでも皆さんは、僕を羨みますか? 「あ、秋葉さん。どうもこんにちは」 「ええ、どうも。で、兄さん、こちらの方は? 外国の方のようですけれど?」 「なーにー志貴? この性格の悪そうな女」 「なっ!」  ・・・あぁ。 「志貴さん志貴さん。今日の夕ご飯は翡翠ちゃんの要望で志貴さんの好物のハンバーグなんですけど・・・あ、秋葉様、今お帰りですか?」 「ね、姉さん・・・」 「秋葉様、ちょっと失礼しますね。よいしょっと・・・。志貴さん、味付けはどんなのがいいですか? 和風のほうが上手に出来るんですけど、志貴さんが他のがお好みでしたら変えますよ? イタリア風のチーズハンバーグでも・・・」  うぁ・・・。 「う〜ん・・・。そっか、料理できるのって重要だよねー。ん〜・・・でも、私のところにくれば専属のシェフがいるから、別に料理なんて出来なくていいよね」 「わ、私はパンが焼けますよ? えーと、ほら! カレーパン! カレーパンとか! カレーパンってあれでいて結構難しいんですよ。えーとですね・・・」 「・・・性格、が、悪そうな、女?」 「和風でいいですよね?」 「・・・志貴様」  ああああああああああああああああああああああああ。  ダレカ、タスケテ。  ボクハドコカデナニカマチガエマシタカ?  シアワセガ、ドンドントオクナルノハ、ナゼデスカ? /END?